60'sアメリカ経済
1960年代の合衆国経済は歴史上最も長い繁栄の時期を迎えた。
自動車、化学製品、電気耐久消費財など1950年代にはその主要な部門であったものが、航空宇宙産業、住宅建設業、コンピュータ産業に取って代わられた。60年代末における平均的アメリカ人の収入は1950年から50パーセントも増え、その高水準な生活には世界中が妬んだ。多くのアメリカ人にとって、この新たな豊かさ(収入)が意味するのは、必要なものを買うためではなく、趣味、レジャーなどの楽しみに費やすための収入だということだった。
国外においてもアメリカ大企業は極めて支配的だった。海外投資は50年の 118億ドルから65年には492億ドルに増えた。アイ・ビー・エム(International Business Machines, IBM)は世界各国に支社を設け、キャンベル (Cammbell Soup)やハインツ(Heinz)は世界中に加工食品を輸出した。
そしてコカ・コーラ(Coca-Cola)はその普遍的とも言うべき広まりゆえに、アメリカ企業海外進出の総称として『世界のコカ・コーラ化(アメリカ化)』とさえ呼ばれた。

ジョン・F・ケネディ
☆キューバ危機☆
1962年10月14日、アメリカのU-2偵察機がキューバで中距離ミサイルの設置場所をはじめて写真にとらえた。それはソ連製のミサイルで、カストロとフルシチョフの大胆な共謀だった。
ケネディは直ちに対策委員会を組織してキューバからミサイルを撤去させる策を練った。採用されたのは、キューバへの軍事輸送を妨げるための海上封鎖だった。アメリカ側はソ連の対応次第で攻撃も交渉も可能であった。 10月22日、ケネディは全国ネットのテレビ放送でアメリカの政策をソ連に伝え、キューバからの撤退を要求した。アメリカ艦隊がカリブ海に向かい、核爆弾を搭載した爆撃機が出撃し、世界中のアメリカ軍が警戒態勢についた。核戦争勃発の危機的状態を全世界が固唾を飲んで見守る中、27日フルシチョフはついに、アメリカ側がキューバの主権を守る誓約を確認した上で、ミサイル撤去を約束する。
その後、ケネディは1964年に公民権法を制定(※詳しくは下記のキング牧師の項にて)。ケネディがいなければあと、20年は遅れていただろうといわれている。そして忘れてならないのが、ダラスでのケネディ暗殺。
家庭用フィルムで撮影されたその映像は今では、国家的な重要資料として扱われている。この暗殺の黒幕はCIAであるとか軍産複合体であるとかいう説があるが、その真相は今もって謎であり、当時の重要資料は保管され、2039年にすべて開示されるというが、開示される頃にはほとんどの資料が盗み取られているというのが大方の見方である。

チャールズ・マンソン
1934/11/12オハイオ州シンシナティで私生児として出生。
幼少時、母親は当初マンソンの面倒を見ず、親戚の間をたらい回しにされる。
母親は厳格なクリスチャンの家庭を飛び出し、売春で生計を立てていた。
母親がガソリンスタンド強盗で刑務所に行くと、叔父夫婦に引き取られたが、その叔父にも虐待され小学校に女装して行かされ、いじめられた。10代の頃には刑務所にも入り、同性愛の看守によって性的な暴行を日夜受ける。
55/05、19歳で出所、炭鉱夫の娘と結婚して子供をもうけるが、売春組織の元締めをやって逮捕、7年の懲役となる。1967年仮釈放された時期はヒッピーが大流行していた。
理想主義で人生に目標がない、社会からドロップアウトした若者たちの間でカリスマ的指導者となる。
「ヘルタースケルター(終末戦争)に備えよ。を公害が環境を破壊している。
                人種偏見は醜い。愛は正しく悪は誤りだ。彼だけが病んだ社会を回復できる」

といった主張を説き、世間知らずの若者の心をつかみ、音楽とセックスとドラッグで彼らを意のままに操った。ギターを弾き、真理めいた語りで信者を酔わせた。
「やがて白人と黒人が大戦争を起こし黒人が勝つ。しかし黒人は統治能力がないことに気づく。
                                 そのとき超純血種であるマンソンファミリーが世界の頂点に立つ」

←スーザン・アトキンズ21歳
支持者たちに語りかけるときはドラッグを配り、プロ並みのロック音楽で引きつけた。
マンソンが一躍有名になったのは、69/8/9、妊娠9が月の女優シャロン・テート(当時26歳、右写真)の腹部を刃物で裂いて殺害した事件だった(刺痕11箇所、死因は出血多量)。この時押し入った家はドリス・デイという有名な歌手の持ち家で、その息子である音楽プロデューサがマンソンの音楽を認めないことが押し入った直接の動機だった。殺害後、壁に「PIG(豚野郎)」と書いて立ち去った。
                                    スパーン牧場の経営者はジョージ・スパーン →
その後、支持者が増えたため、カリフォルニアのデスバレー近くの牧場で共同生活を始める。最終戦争に勝ち残るため閉鎖的社会を作る必要があるという名目で信者をまとめた。マンソンはビートルズの熱狂的ファンで「へルタースケルター」という曲に特殊なメッセージを感じ、それを体現しているのだという。マンソンは白人と黒人の最終戦争のことを“Helter Skelter”と呼んでいたが、ビートルズの曲の歌詞はマンソン自身のファミリーのことを歌っているとした。つまり、底のない穴からファミリーが現れる様子を描いたものだというのだ。
イギリスでは“Helter Skelter”は遊園地にあるらせん状の滑り台のことだったが、アメリカにはこのような解釈はなかった。
一連の残虐な殺戮を終えた後、ファミリーはしばらくなりを潜めていた。しかし後にスーザン・アトキンズが売春容疑で逮捕されたとき、留置所で同房者にシャロン・テート殺害犯であることを打ち明けた。この情報が当局に漏れたため、1969年12月1日ファミリーは一斉検挙された。
死刑判決を受けるが、判決の11ヵ月後にカリフォルニア州で死刑が廃止(72/06/16)されたため、現在もカリフォルニア州コーコラン刑務所に収監されている。憎みつづけた社会によって命を救われたことは歴史の皮肉と言う他はない。
ちなみに、マリリン・マンソンはマリリン・モンローとチャールズ・マンソンの名前から取ってつけられた。


マーティン・ルーサー・キングJr.
マーティン・ルーサー・キング Jr.は1929年1月、ジョージア州アトランタに生まれた。
両親ともに,黒人の名門大学に学んだインテリで、彼自身も父と同じ大学に進学する。
1954年,牧師としてアラバマ州モントゴメリーの教会に着任していた彼は、市バスの差別待遇をめぐる争いに遭遇する。これは黒人の主婦、ローザ・パークスという女性がバス内の座席が白人優先であることに抗議したことから,逮捕に至った事件がきっかけとなり、市民が1年間にわたり市バスのボイコットを行った事件だ。
この時の運動でキング牧師は指導者としての頭角を現し、生涯続く彼の非暴力の思想が具体化された。
これにより広く注目を受けた彼は1963年にアラバマ州バーミンガムで差別撤廃の大規模なデモを主導。同年8月にワシントンで開かれた大集会で、キング牧師が行った「I have a dream」の演説は有名だ。
そして1964年には白人と同等の権利を求めて続けられていた運動の努力が実り公民権法が制定され
キング牧師のノーベル平和賞へとつながった。公民権運動が輝かしい成果をあげたこの年、皮肉にもキング牧師の非暴力主義に反対の態度をとる急進派が台頭し始めていた。彼らはこの年の7月にハーレムで、翌年8月にはロサンゼルスで暴動を起こしている。1968年4月、キング牧師はこうした情勢の中テネシー州メンフィスの黒人清掃作業員のストの支援に出かけ凶弾に倒れ亡くなった。39歳だった。