販売買取専門店フィッツ
個人の歩み
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1988-89(中学生)
90-92(高校生)
93-96(無職)
97-99(無職2)
1988
昭和63年5月
中学1年生
音楽との出会い
親に連れられて入った末広(ここら辺にあった。今はもうない)の喫茶店で 長渕剛のLICENSEの映像が大きな画面流れていて(イメージとしてはこんな感じのアダルティな喫茶店でした)心がザワザワする。 帰宅後にレンタルビデオ店(チャーリーブラウン X(旧Twitter))でLICENSEを借りる。稲妻が落ちるほどの衝撃を受ける。後に振り返るとこの出来事がこの先の人生を決定づけたような気がする。
▲LICENSE
1988
昭和63年10月
TBSドラマ「とんぼ」開始
ドハマリする。コタツに入りながら親と一緒に見てたな~
当時周りでは「長渕剛=ダサイ」みたいなイメージがあり、 声をあげて「好き」といえる風潮ではなく、 もう一人の長渕剛好きの友人と日々語り合う毎日。 当時はカラオケブームで「BUCK-TICK」や「氷室京介」や「X」や「バービーボーイズ」などみんな歌っていて それらがイケてる音楽だった。
1989
平成元年4月
中学2年生
人生初ライブ
4月19日に徳島市文化センターにて人生初ライブ「長渕剛:昭和ツアー」を体感。 ライブの圧倒的な熱量に超感動(*当時のセトリ ※1公演前の神戸ワールド記念ホールのもの)
「くそったれの人生」のイントロがはじまり(後に発売されたLIVE'89を聴いてあの時の出だしと同じだと感動した)。
ただこの公演は前代未聞のアクシデントがありました。 幕が左右に開いた後に頭上から幕をつる緞帳が剛の2m前に「ズドンッ」と落ちてきて(イメージ動画*音が出ます)(あたってたら死んでたと思う) また何か落ちてくるんじゃないかと不安に思う剛はじめバンドメンバーは 3曲目くらいまではたびたび頭上を見上げながら演奏していました。
ファンクラブ会報にもその出来事が記載されていました。
まさにその現場が私の人生初ライブであったわけです。
あとは
・巡恋歌の終盤テンポが早くなったり
・勇次のクラッカー
・昭和の最後の照明が上がっていく様
・個人的に初めて聞いた「また会おう」
などいまでも鮮明に覚えています。
立見席ではありましたが、当時立見席は通路に案内されて(消防法にひっかかるから今はダメなんだと思いますが)「始まるまではここで座って待っていてください」と言われ、立見席ではありましたが中段あたりで見ることが出来ました。
▲徳島市文化センター
1990
平成2年
中学3年生
ギターを始める
お年玉でMorrisの2万円くらいのフォークギターとハーモニカとハーモニカホルダーと長渕剛弾き語り全曲集を買ってコピーを始める。弦はもちろん「HEAVY GAUGE」
1991
平成3年
高校1年生
U2との出会い
FMステーション(現在は廃刊)で長渕氏が「U2がアイルランド人でアイルランドの事を歌わずにいられないように、僕も日本人であるがゆえに日本の事を歌わずにはいられない」という記事を読みU2に興味を持つ。 すぐさま「魂の叫び」をレンタルする。モノクロで教会で歌う「終りなき旅(*YOUTUBE)」には衝撃を受けました。
当時U2はルーツミュージック(現代のポピュラー音楽の源流となった伝統的な音楽)などを求めて音楽的な旅をしており、歌詞の中に「ビリー・ホリデイ」や「ジョン・コルトレーン」が出てきたり、ボブ・ディラン「見張塔からずっと」やカーティス・メイフィールド「Perople Get Ready」をカバーしていたり、ライブのオープニング曲がザ・ビートルズの「ヘルタースケルター」であったりしました。
洋楽の入りがU2でその後にビートルズやストーンズなどを聞いたという流れです。
U2と出会ったことで、U2を通じていろんな音楽を聴き音楽のすばらしさを体感したことが今の人生につながっています。
▲名盤:ライブ&ドキュメト

音楽の扉を開いてくれたのが長渕剛
洋楽の扉を開いてくれたのがU2
ジャズの扉を開いてくれたのがマイルス・デイビス(My Funny Valentineに衝撃を受ける)
クラシックの扉を開いてくれたのがグレン・グールド
でありました。
1992
平成4年
高校2年生
YAMAHAのエレアコ購入
それなりに腕前も上達。
長渕剛以外にも島唄がヒットする前の初期THE BOOMの楽曲(中央線、釣りに行こう)やボブ・ディランやエリック・クラプトン(1992年はUnpluggedが発売された年)など幅広く練習・演奏するようになりました。
1993
平成5年4月
上京(日野市南平に住む)
▲日野市南平
バンドを組むため新宿の石橋楽器の入り口にあったメン募(こんなもの)でメンバーを募集する。 当時はライブハウスや楽器屋の入口などにバンドメンバー募集の張り紙スペースがありました。 音楽雑誌のバンドメンバー募集などにも住所や電話番号が掲載されていた時代。
すぐさま何本かの電話があり都内でセッションをするが、都会のプロ志向の方々のレベルの高さに驚愕。。
とてもじゃないけどついていけない。自分の技術が恥ずかしい。。
この時によくカセットにセッションする用の楽曲を録音したものをもらいました。 「プライマル・スクリーム(Give Out But Don't Give Upのころ)」とか「ジョージア・サテライツ」などはこの時に知りそれ以来ずっと聞き続けています。
とどのつまり身の丈を知り、初心者ばかりのバンドを組むこととなりました。

当時は小室(哲哉)サウンド真っ只中。trfやhitomiなどテレビから街中からよく流れてました。個人的には好きになれず、この時期はNIRAVANAやPEARL JAMに代表されるグランジばかりを 聞いてました。

初めての東京ドームライブでダフ屋から3万円でチケットを買ってマドンナ( The Girlie Show)をせり出しているステージの正面前の3列目から見たのもこの時期。 この年の暮れにはU2のZoo TVもみました。音の跳ね返りがひどかったのと、スタンドがガラガラだったのを覚えています。
お金はありませんでしたが、コンサートにはちょくちょく行ってました。ストーンズ(Voodooの東京ドーム)やヴァン・ヘイレン(サミー・ヘイガーの代々木)のチケットを 取るために青山チケットエージェンシーまで早朝に並びに行ったりしたのもネットが無かった時代の懐かしい思い出です。
1994
平成6年
バンド活動の日々
バンド練習にライブ、コンテスト応募、ひとり弾き語りでコンテストなどの日々。
仕事はDISC WAVE横浜店で中古CD屋の店員として働いてました。 ブートレグなども取り扱っていてブートの知識がつきました。 今と比べてオーディエンス録画などは見るに堪えない粗悪な物が多かったです。
バンド活動に関しては今ならYoutubeに動画上げれば、再生回数やコメントで自分たちの可能性の是非をすぐに判断できますが当時はスタジオ入ってデモテープ作って、音楽雑誌買って(当時はデモテープ募集など随時ありました)レコード会社にカセットテープとメンバーの履歴や意気込みを書いた紙を送って 返信を待ったりしていました。1か月たってもどこからも連絡がなく、電話で尋ねても答えられないの一点張り。 3か月たって半年たって返事がないと確認し諦める・・・みたいな時間軸で動いていました。
▲コンテストの日々

フリーター
ライブ会場の設営の「派遣」のバイトしてました。都内の各コンサート会場などへの行き方が ファイルリングされた手帳サイズのファイルをもらって希望の日時に入るというもの。
鈴木雅之さんの中野サンプラザや安室奈美恵さんの代々木体育館など誰もが知るコンサートの撤収などもしましたが それは稀なケースで(大体そういう場合は名前は伏せられていて「中野でいついつに撤収の枠があります」みたいな案内でした。 当時はネットがなく事前に調べたりはできないので当日行って初めてそういう現場だと知ることが多かった) 多くの現場は飲食イベントのテントの設営だったり、入間市まで行って公園での町内会運動会のテントの設営だったり 自分が思い描いていたものとは違っており、かつ行く場所も毎回違い、仕事するメンバーも毎回違い (その中でリーダー格みたいな人がいる)、そういうことに疲弊して長くは続きませんでした。
携帯が無い時代だったので家の固定電話の留守電に「いついつにこういう仕事ありますが入ってくれませんが」みたいな 電話がほぼ毎日入っていました。

カートの死
カートコバーン(1967-1994)の死
ネットがない時代、情報を得られたのはCROSSBEATなど音楽雑誌だけ。 しかも月に1回の発行。
記事ではグランジがメインストリートに躍り出たことで精神的に不安定で行方不明になった。
次の月にはショットガンで自殺したみたいだ。
また次の月には詳細記事…みたいに、2か月前の情報を毎月1回発行の音楽雑誌でぼんやりと全容が分かるような感じでした。
NIRVANAは大好きだったのでものすごく落ち込みました。
SNSもネットも無い時代、情報がリアルタイムに入って来る今の方がはるかにいい時代だと思います。
▲影響受けた12枚
1997
平成9年3月
新星堂勤務
現:東急八王子スクエア(1997年の開業当時はカルチェ5八王子と呼ばれていた)の中にあった 新星堂のオープニングスタッフで1997年3月14日より働きはじめる。 中古屋さんとは全く異なる流通システムや客層も勉強になりました。
サンプル盤を月に1回すきなだけ持って帰ってよかったので少しでも興味があるCDを毎月50枚くらい持って帰って聞いてました。 レコード会社とCD屋さんの関係性やサンプル盤の法的な解釈などもこの時に知りました。

またインストアイベントを開催していて、黒夢やホフディランや「かせきさいだぁ」のメジャー組からイベントで 聞いて大好きになったrough laugh (サウンドチェックでNIRVANAのsmellを弾いていた)やフリーボなど 世間的には「売れなかったバンド」ですが私は今でも時折聞いては当時を思い出すことのできる数少ないバンドです。 インディーズ盤も多く取り扱っていたので勉強になりました。SHAZNAやSIAM SHADEやSOPHIAなどヴィジュアル系がすごいブームで独立したコーナーがありました。
仕事中はまじめで怖い社員さんが閉店の後に締め作業をしながら店内のモニターで当時人気がすごかったK-1を 見せてくれたのをなんかすごい覚えています。
残念ながら東急八王子スクエア新星堂店は2013年2月24日に閉店。これも時代の流れですね。
▲新星堂 八王子店

新譜CDは注文時にバック(売れ残ったら返品)が効くので、かなり多めに発注かけることが多く、 そういうこともあり特に売れ筋は売り切れになることもまずないのですが、私が働いていた時期に 売り切れて近隣の店舗や場合によっては吉祥寺の新星堂まで在庫分けをしてもらったのは以下の3作
Chara/Junior Sweet(1997.9.21発売)
GLAY/REVIEW(1997.10.1発売)
宇多田ヒカル/First Love(1999.3.10発売)
安室奈美恵のSWEET19BLUES(1996.7.21発売)のすごい勢いで売れていた記憶がありますが、 4形態(ジャケットが4種類)あったのでは発注数も多くかけることができたので 売れきれまでにはなりませんでした。

1997
平成9年7月
アメリカへ音楽の旅に
アメリカ西海岸(サンフランシスコ→LA→サンディエゴ→メキシコ)に音楽の旅に人生で初めて出かけたのもこの年。
▲1枚目~6枚目の写真はLAのギターセンターハリウッド前にて撮影
▲1枚目・・エアロスミスのステージセット
▲2枚目・・エディ・ヴァン・ヘイレンのギター
▲3枚目・・RockWalkのJeff BeckやJimmy Pageの手形前
▲4枚目・・スティーヴィー・レイ・ヴォーンの横に立って
▲5枚目・・ジェフ・バックのストラト前
▲6枚目・・カート・コバーンのムスタングや衣装
▲7枚目・・滞在中にジャンニ・ヴェルサーチが亡くなり店舗前では花束が置かれていた
▲8枚目・・カリフォルニアのHARD ROCK CAFE
▲9枚目・・ラスベガスの「Hard Rock Hotel and Casino」テッド・ニュージェントのライブの日でした(見てません)
▲10枚目・・ラスベガスのダウンタウンにあるFour Queens Hotel。U2のMVが撮影されてたフリーモント・ストリート・エクスペリエンス沿いにあり。MVと同じ場所だと感動しました。
1998
平成10年
CDショップを転々と
バンド活動の傍らでCDショップでアルバイトの日々、掛け持ちもありながら
これまでアルバイトしたCD屋さんは以下

・DCD町田
プロモ盤の取り扱いあり。すごく雑多でマニアックなお店でレア盤などはゾロ目(11111円とか)で値付けしてました。 店番が一人の時なども多く、自分の好きな音楽をかけ放題だったのですごく音楽の幅が広がりました。
▲DCDで勤務中(1998)

・山野楽器-調布PARCO店
エヴァンゲリオンのビデオやミスチルのBOLERO発売などの時期にアルバイトしてました。
いわゆる王道の売り方です。誰もが知っているものを前面に。マニアックなものは在庫を持たずに受注を受けるスタイル

・TOWER RECORD-相模大野店
音楽好きにとって外資系のCD屋で働くことがステータスであった時代でした。
書類審査の1次が通って、青物横丁まで面接に行って採用に至るまでが大変でした。
募集を見つけては応募して3回落ちました。4回目でやっと採用まで至りました。
音楽好きの集まりでした。 この時には私も本当にたくさんの音楽を聞いてきて広く深く知っているつもりでしたが、 「佐久間学好きなんですよ~」とか 「クリスデュアーテグループ知ってます?」って聞いても自分が知っている3倍の情報量で返ってきたりして ひれ伏すばかりでした。「僕なんか全然音楽詳しくないな」と思ってました。

・Virgin Record-本厚木店
Virginが・・・ということではありませんが、働いているスタッフが陰湿だった。
暗い、喋らない、目を合わせない。
仕事中は業務的な話だけで音楽の話は興味無しって感じでした。
3日でバックレました。

・中央林間 イトヨーカドー内の新星堂
地域柄 演歌のカセットが需要がありました。
ハリーポッターのDVDの予約数がすごかったです。
イントラネット(企業や学校などの組織内部の人だけが利用できる専用のネットワーク環境)があり 店舗間で在庫確認でき最終的には電話で在庫を確認するんですが、八王子の新星堂で働いていた時の社員の 方(その方も異動で埼玉の店舗勤務とかになっていた)と偶然話す機会などもありました。

・レコファン町田店
現:RINS ONEビルの5Fだったかな?の時に働いてました

これらの経験が後の中古CD販売買取事業に繋がりました。
1999
平成11年
パソコン購入
IBMの15万円のデスクトップをローンで購入。
独学でHTMLを勉強して自分の手持ちの中でレアなCD紹介のホームページの作成を始める。
翌年にはヤフーオークションのサービスがはじまり、 バンド活動よりもそちらの方がお金にもなるし、面白くなりはじめバンド活動は消滅。
CD販売が主たる仕事としてだんだん確立していくのですが、 1999年以降の動きは事業の沿革として以下のページに記載しております。
フィッツの歩み →(1999年~)

【人生で一番聴いてきた1枚】
U2 「Achtung Baby

【人生で最高だったライブ 3本】
U2 「Vertigo 2006年 さいたまスーパーアリーナ」
Cocco 「2011年 TOKYO DOME CITY HALL ザ・ベスト盤ライブ5本〆」
BON JOVI 「1995年 東京ドーム CROSS ROAD」

【20世紀を代表する1曲を選ぶなら】
松田聖子「夏の扉」


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