解散して20年以上たつ今なお、多くのアーティストにリスペクトされ、幅広い年令層に指示されているレッド・ツェッペリン。今から30年以上も前の’68年に、元ヤードバーズのジミー・ペイジを中心にロバート・プラント、ジョン・ポール・ジョーンズ、ジョン・ボーナムの4人で結成された。 1st 最初こそバンド名を”ニュー・ヤードバーズ”と名乗っていたが、同年9月に行われたスカンジナビア・ツアーの時に”レッド・ツェッペリン”と改名された。
 そして’69年にデビュー・アルバム「レッド・ツェッペリン」を発表!!ブルースの流れをくむジミー・ペイジのギター・プレイとロバート・プラントの絶叫型のヴォーカルは強烈な印象を与え、かなりの話題となった。
コーダ  前作で名声と圧倒的な支持を得た彼らは翌年10月には2nd「レッド・ツェッペリンU」を発表。ビートルズの「アビー・ロード」を押し退けて全英チャートの1位に7週連続で君臨。全米では300万枚以上のセールスを記録した。
 名実ともにトップ・アーティストとなった彼らだが、70年に発売された「レッド・ツェッペリンV」を契機に音楽性に変化を見せ始める。ハード・ロックというジャンルに束縛されず、ありとあらゆる音楽を取り入れて行ったのである。
V  ヘヴィ色を打ち出しながらもブルースやフォーク調のナンバーも収録した’71年の「レッド・ツェッペリンW」。メロトロンを導入したりエフェクト処理やダビングに凝ることによって、実験的な作品に仕上がっている’73年の「聖なる館」。自分達のレーベル”スワン・ソング”を設立してからの2枚組スタジオ・アルバム「フィジカル・グラフィティ」をリリース。このアルバムに収録されている”カシミール”は後にアメリカ盤ゴジラのサントラ用としてパフ・ダディーがカヴァーしてヒットさせている。
W  このように前期はヤードバーズの流れの中からブルース的なものをやっていたが、中期を経て後期には次第にプログレ的なものにまで変化して行くことになるのであるが、人気の方は落ちることがなく’76年にリリースされた「プレゼンス」は全米、全英ともにナンバー・ワン獲得。’73年のマディソン・スクエア・ガーデンでのライブを収録した’76年発売の「永遠の詩」に至ってはチャートのトップ40以内に12週もランク・インしていた。'79年の「イン・スルー・ジ・アウト・ドア」ではサンバ風のナンバーまで収録しており、彼らの音楽的な幅の広さを見せつけるかのような作品であった。
聖なる館  順風満帆な彼らだったが悲劇が突然訪れる。’80年9月25日ドラマーのジョン・ボーナムが急性アルコール中毒で亡くなってしまった。この悲報にメンバーはもちろん、ファンや関係者も大きなショックを受け後任のドラマーを加入して活動を再開して欲しいというファンの声もあったが、’80年12月4日、「ジョン・ボーナムを失った今、レッド・ツェッペリンとして活動を続けていくことは不可能である。」というメンバーからのコメントがマナージメントから正式発表され、12年間の活動にピリオドを打ったのである。
フィジカル〜  ’82年になって未発表曲や未発表テイクを収めた「最終楽章:コーダ」がツェッペリン名義で発表され、再結成か?と噂もされたが、3人のメンバーは個々の活動を始めたのであった。
 ジミー・ペイジはセッションやソロ活動をし、ローリング・ストーンズの「ダーティ・ワーク」に参加。ソロ作としては’88年の「アウトライダー」がある。一方ロバート・プラントは’82年に初ソロ・アルバム「11時の肖像」をリリース。’84年にはペイジも参加した”ハニー・ドリッパーズ”として「ヴリューム・ワン」を発表している。
フィジカル〜  ツェッペリン加入以前からプロデューサーやアレンジャーとして知られていたジョン・ポール・ジョーンズは、ポール・マッカートニーの映画「ヤア!ブロード・ストリート」に参加。サントラの方にもベーシストをして参加。他にもREMの「オートマチック・フォー・ザ・ピープル」、ブライアン・イーノの「ナーヴ・ネット」、ピーター・ガブリエルの「US」などにも参加し、他の2人同様精力的に活動している。


まずはこの1枚・・・
Led Zeppelin

Led ZeppelinU
 ”胸いっぱいの愛を”で幕をあける通算2作目にあたる作品。ビートルズの「アビー・ロード」をチャートの1位から蹴落としトップに立ち、予約の段階で80万枚を超えたというのは有名な話。個人的にはペイジとボーナムのやり取りが素晴らしい”モビー・ディック”が大好きである。