ルイ・アームストロング。通称サッチモ(英国の記者がサッチモのあまりの口の大きさに驚いて“SUCHーA MOUTH(何て口だ)”といったと言う説がある)。19世紀終わりジャズ発祥の地であるニューオリンズのスラム街に誕生(明確な誕生日はいろいろな説があるので省く)。
当時のニューオリンズの黒人街は、新音楽に満ちあふれていた。お葬式のパレードにはバンドが出てジャズを演奏。教会はゴスペルでスイング。町のバーも、売春宿もブルースやラグタイムのリズムに満ちあふれ、そんな中で少年時代のサッチモは音楽に憧れてゆき、10才になる頃には子供同士でコーラスグループを作り、街を流しては小銭を稼ぐ程になっていた。
そんな彼に突然の災難が訪れる。いつものように子供四重唱団が通りを流して歩いていたときである。当時、新年と言うとクラッカーや爆竹をならして祝うのが習慣となっていた。ルイは小さな玩具のピストルもった少年グループに対抗して、タンスの奥で見つけた父親の本物の38口径を発砲し、警察に逮捕され少年院送りとなってしまう。 少年院には黒人少年達のブラスバンドがあり、幸運にもコルネットに出会ったルイ少年は、世界的音楽家としての一歩を踏み出すこととなる。一年半後に少年院を出たルイは、以前から憧れていたコルネット奏者、ニューオリンズのジャズの王様と言われたキング・オリバーに才能を認められ、めきめきと腕を上げて行く。キング・オリバーがシカゴへ移った後は、彼の代役としてキッド・オリ
ー・バンドに入り、また1919年から約2年間は、ミシシッピー河をミネアポリスまで航海するリバーボートの楽団で演奏した。
そんな環境の元でルイの名は知れ渡り、評判を聞きつけた一流音楽家達がやって来ては、新音楽ジャズを自分たちの音楽にも取り入れようと、ワイシャツの腕のカラーに、ジャズのメロディーや即興のフレーズをメモしていったという。新たなステップを踏むために、1924年キング・オリバーのクリオール・ジャズバンドを退団。ニューヨークのフレッチャー・ヘンダーソン楽団の一員となる。1925年、ニューヨークからシカゴに帰ったルイの音楽活動は、まさに世界をジャズエイジへと突き進ませることとなる。 その後、1928年までの間に、ホット・セブン、サボイ・ボールルーム・ファイブ等々・・“ウエストエンド・ブルース”、“ポテトヘッド・ブルース”、“ウェザーバード”等普及の名作が並んでいる。特に1926年にホットファイブで吹き込んだ“ヒービー・ジービーズ”は、ボーカリストとしてのルイ・アームストロングの記念すべき名盤である。まだ聞いたことのない人には是非聞いて欲しい1枚である。この作品以後、トランペットばかりでなく、ボーカリストとしても注目を浴びることとなる。この頃になるとジャズという音楽は黒人が白人へ、白人が黒人・・お互いに大きな影響を共に与え合いながら、新音楽ジャズは大きく世界へと発展して行く。 1930年代に入り、映画界にも進出。、「エブリデイ・イズ・ア・ホリデイ」「画家とモデル」、「ゴーイン・プレイセズ」40年代に入り「キャビン・イン・ザ・スカイ」「ニューオリンズ」へと活躍が続いて行く。
1947年には、ニューヨークのカーネギーホールやタウンホール、ボストンのシンフォニーホール等々一連のコンサートに出演。このときの模様はCDになっているのでチェックしておきたい。1949年2月には、ルイはジャズマンとして初めて“タイム誌”の表紙を飾り、誌面には彼のカバーストーリーが掲載されると言う栄誉に輝いた。
1950年代に入り、ルイ・アームストロング・オールスターズは成功に成功を重ね、全世界を廻りアメリカの親善大使としての役割を果たした。この頃('53年12月)には浅草国際劇場で、映画“君の名は”と抱き合わせで公演も行っている。
1964年ブロードウェイミュージカル“ハロードーリー”のシングル盤は世界中で大ヒットを記録し、当時全盛だったビートルズを抜いて、ヒットチャートのトップに躍り出たのである。この曲を引っさげ60代半ばにして世界演奏旅行に出ることとなった。しかしそれは、結果的にサッチモの健康に大変なオーバーワークを強いることになってしまった。1959年イタリアで初めての心臓発作に見まわれて以来、少しずつ弱ってきていた彼は1971年7月6日、ニューヨーク郊外コロナの自宅で息を引き取った。 心臓発作に見舞われてからも生涯最高の名作「ワット・ア・ワンダフルワールド」「女王陛下の007」の主題歌、また、アルバム「ルイ・アームストロング・アンド・ヒズ・フレンズ」の制作、テレビショーや各地のコンサートへの出演を精力的にこなしたまさにジャズ界の王様と呼ばれるにふさわしい人物である。