キース・ジャレット/マイ・ソング
キースといえば、代表作として”ケルン・コンサート”が真っ先に思い出されるが、 この”マイ・ソング”ではまた違ったキースの一面が見られることの出来る お薦めの一枚です。


70年代以降のJAZZピアノ界においてチックコリア、ハービーハンコックと並び、多大な影響を今日まで与えている キース・ジャレットは、1945年、ペンシルヴァニア州アレンタウンに生まれ、3歳でピアノを始め、 7歳で初めての「リサイタル」を開いたというのは有名な話。
サンタナ962年に学校を卒業するとバークリー音楽院に学び、この頃からボストン周辺で彼のオリジナル・トリオで活動し始めている。 1965年ニューヨークに移ったキースはアート・ブレイキーとジャズメッセンジャーズに4ヶ月ほど参加している。 この時期の演奏が『Buttercorn Lady』(Limelight)として残っている。チャック・マンジョーネ(tp)を含むクインテットの演奏は、 初期のキースの姿を捉えた貴重な作品。
 1966年、当時“ポスト・コルトレーン”の最右翼と見られ、昇竜の勢いだったテナー・サックスのチャールス・ロイドのバンドに参加、 1969年までの在団時に、ピアニストとしての評価を固めることになる。参加直後の1966年3月末に録音された 『Dream Weaver』ではジャック・デジョネット〜セシル・マクビーという若手最高の人材と共にロイド・ミュージックの有力な 担い手として活躍している。その後、9月には名作『Forest Flower』に参加、ヨーロッパ・ツアーに出発、やがて大きな影響を与える「この地」に演奏家としての初めての足跡を残している。
 1967年には、文化施設として当時のソビエトを訪れ『Charles Lloyd In The Soviet Union』を残している。 キースはこのツアーに先立つ1967年5月4日、初リーダーアルバム『Life Between The Exist Signs』を、 チャーリー・ヘイデン〜ポール・モチアンという、当時も現在もピアノ・トリオにおける最高のサイドメンを従えて、 アトランティック・レーベルの傍系「Vortex」レーベルに吹き込んでいる。
 1968年から1969年は、キースにとって次の飛躍へのステップの中間の年であり、68年10月にはキース・ジャレットのオリジナリティを 初めて世に問うた名作『Somewhere Before』を、前作と同じくヘイデン〜モチアンとのトリオで録音、 「民族派」、もしくは「カントリー派」的な感性を感じさせている。やがて、キースは1969年11月の『Forest Flower '69』 をもってロイド・グループを退団する。
1969年、マイルス・デイヴィスに請われ彼のバンドに参加、当時のマイルス・バンドは『Bitches Brew』サウンドを標榜した時代で、 キースには本意ではなかったかもしれないが、『Live-Evil』『Miles At Filemore』『Get Up With It』などに参加する。
太陽の秘宝 1971年、発足間もないECMレーベルへ、ジャック・デジョネットとのデュオによる作品『Ruta And Daitya』を録音、 新しい出発を図った。この時から「観客を前に何も決めず無の状態で演奏する」というスタイルを徐々に確立させていきました。 続いて、契約が残っていたらしいアトランティック・レーベルに、『The Mourning Of A Star』『Birth』を録音、 後者ではトリオにデューイ・レッドマンが参加、この後のグループとしての「表現形式」が形作られている。
 一方でECMへはソロ・ピアノ・ブームの先駆けとなった初期キースの最高作『Facing You』を1971年11月に録音、 さらに72年春には、“勇み足”と後年揶揄された『Expectations』をメジャー「Columbia」からリリースする。 この時期、キースはマイルス・バンドで共演したアイアート・モレイラの『Free』や同じくアイアートが参加した CTIへのフレディ・ハバードの『Sky Dive』にも参加している。キースにとって次のキース時代への序章とも言える時期で、 後年、形を成す表現フォーマットを矢継ぎ早に試している。
 発売は相前後するが、『Shades』でレギュラー・カルテットを解散したキースは、ソロ活動と共に新しいカルテットを、 2歳年下の北欧ノルウェイの若き獅子、ヤン・ガルバレクを迎えて結成、一方、75年に入るとキース・ブームを巻き起こし、 『Return To Forever』と共にECMレーベルの基礎を固めた、LP2枚組のソロ・アリバム、『Koln Concert』を録音する。 後者の『Koln Concert』はまさにキースの代表的作品である。
 当時までの常識からいって、LP2枚組のソロ・ピアノなど考えられない時代だったが、この作品は爆発的なヒットを記録する。 世界で100万枚以上売れたというこのアルバムだが、キースは前日一睡もしていなかく、それに加えて、 演奏前に灼熱地獄のようなレストランでまずい料理を食べていた。そして、最も致命的だっったのが、 音の悪いピアノしか会場に用意されていなかったことである。後日、その音について、ハープシコードのきわめてまずいコピーか、 ピアノのなかに留め金でも入っているかのようで、実際の演奏に入るときとは本当に寝ていた言っています。 そして、そんな肉体的ハンディキャップに加えて、高音域が使えないようなピアノで演奏しなければならなかったのです。『Changes』でまさに「変換」を宣言したキースは、『Standards Vol.1,2』の成功によって、図らずも次の表現フォーマットを固定させる。
それは、80〜90年代を通じて多くのジャズ・ファンを獲得、さらにアメリカ・ジャズの呪縛に苦しんでいた(?)ヨーロッパのピアニストたちを解放することになる、ゲイリー・ピーコック、ジャック・デジョネットとの「スタンダード・トリオ」である。 この作品以降、スタンダード曲を、ある意味でヨーロッパ的な感性を含む表現で演奏した作品が、 ヨーロッパから輩出する。空間を意識したホールトーンを基本とする録音方法と、スタンダード曲のクラシカルな解釈によって、 キース・ジャレットは、意識しなったにもかかわらず、ウイントン・マリサリスの登場によって「ジャズの伝統」への 回帰を意識していた当時のアメリカにおける「ネオ・クラシカリズム」に対応した形で人気を博していく。 1990年代中盤過ぎ、精神的なプレッシャーから、立ち止まったキースだが、『Melody At Night With You』で見事復活、 さらに2000年にはパリでのスタンダード・トリオによるライブ盤『Whisper Not』を発表する。 確かに、かつての氷を凍らせるようなハイテンションと、鼓膜を緊張させる美しいピアニズムにはまだ遠いが、 キースの持ち味を十分に発揮した演奏は、21世紀に向かって彼の新しい表現の可能性を感じさせる演奏だった。 マイルスの時代が終わりを告げ、ヨーロッパから、独自の感性が押し寄せた1980年代後半、キース・ジャレットは、 ピアノ・トリオにおけるビル・エヴァンス以降初めての「ザ・トリオ」を確立、前述したように ヨーロッパのミュージシャンに大きな影響を与えた。 そうした意味ではキース・ジャレットこそは、ヨーロッパの「国替え=国家再編」の時期に生まれた新しい 「時代」の象徴だったのかもしれない。