アクアラング
まずはこの1枚”アクアラング”
アコースティック・ギター&ピアノを効果的に使っており、サウンドがエレクトリック化してゆくなかでポリシーを貫いている。

This Was  イアン・アンダーソン率いるジェスロ・タル。ロック界に初めてフルートを本格的に持ち込んだバンドである。バンド名ノ由来は18世紀の農学者の名前をとって、ジェスロ・タルと名付けられた。
 ’68年にMGMレコードと契約。3月にはデビュー・シングルとなる「サンシャイン・デイ」をリリース。しかしこの曲は全くあたらなかった。8月にはナショナル・ジャズ・ブルース・フェスティバルに参加、大きな反響を呼び一躍スターダムにのし上がる。特にフルートを吹きながら狂気乱舞するイアンは”狂気のフラミンゴ””スピード狂のトスカーニ”などと呼ばれ絶賛の声が上がった。
Stand Up  ’68年9月にはアイルランド・レコードに移籍「日曜日の印象」を発表。このアルバムは全英でトップ10に入りメロディ・メイカー紙の人気投票ではビートルズに次いで2位に選ばれたりもした。
Benefit  ’69年には2枚目のアルバム「スタンシップ」(全英1位)を発売。インスト・ナンバーである”ブーレ”がヒットし、ジェスロ・タルをよりポピュラーな存在にした。’70年には「ベネフィット」を発表。これも全英ではトップ3入りを果たす。
 ’71年には彼らの代表作ともいえる「アクアラング」を発表。一曲一曲が個性をだしていて、味わいぶかい作品となっている。
Living In The Past  その後、メンバーの脱退などが相次ぎオリジナル・メンバーがイアン1人となってしまったジェスロ・タルは’72年にライヴやアルバム未収録曲などを集めた「リヴィング・イン・ザ・パスト」を発表。7月にはクリスタル・レコードへ移籍。8歳の少年の詩をベースにしたトータル・コンセプト・アルバム「ジェラルドの汚れなき世界」を発表。大ベスト・セラーとなる。
ジェラルド〜  ’73年にはイアン自身が脚本、監督、編集を担当した映画とステージを一体化させる為のアルバム「パッション・プレイ」を発売、見事全米no.1に輝いたにもかかわらず、批評家達から酷評を受けジェスロ・タルは1年間ステージ活動を停止する。1年停止した後「ウォーチャイルド」で復帰。’75年には「Minstrel In The Gallery」を発表。’74年には日本公演も行っている。 パッション・プレイ   安定していたかに見えたジェスロ・タルだったが、’75年にジェフリー・ハモンドが脱退。彼はこの後画家の道に入ることになる。’76年には初のベスト・アルバムを発表。翌年には第2弾のベスト・アルバムを発表。それ以降、バンドは不安定な時期が続き商業的な不振もあって、メンバーの脱退、加入が幾つか行われた、そんなこともあってバンドを存続させていく意欲を一時的に失い、自らのソロ・アルバム制作に力を傾けるようになっていった。
20 Years  ’83年にソロ・アルバム「Walk Into Light」を発表し欲求を満たしたイアンは再びバンドの活動に意欲を見せ「オリジナル・マスターズ」という3枚目となるベスト・アルバムも発表した。’88年には活動20周年を記念した3枚組みのボックス・セット「20イヤーズ・オブ・ジェスロ・タル」を発売。彼らの偉大さを改めて知らされることとなる。これがきっかけとなり’89年のグラミーから新たに設けられたヘヴィ・メタル部門において当時人気絶頂だったボン・ジョヴィやガンズ&ローゼスを押さえ、記念すべき第一回の受賞者となった。その後今でも音楽に対する意欲的な活動は続いている。