シェールリアリスティック
まずはこの1枚・・・
”シェールリアリスティック”
”あなただけを””ホワイト・ラビット”などを収録しているサイケデリックなサンフランシスコを世界に印象づけた作品。

Takes Off  ’60年代アメリカ(特にサンフランシスコ)に開放的な風が吹いていた。平和と自由を愛し、東洋の思想に神秘にを求め、ドラッグで意識を拡大する。こんな時代にジェファーソン・エアプレイン(以下JA)は生まれた。
 ’65年にサンフランシスコの”クラブ・マトリックス”でデビュー・ステージを飾り、当時では破格の25,000ドルで大手レコードであるRCAと契約を交わしたサンフランシスコで最初のバンドとなった。同年にデビュー・アルバムとなる「テイクス・オフ」が発売された。このアルバムにはオーティス・レディングなどに捧げられた曲なども収録されているが、全体的にはボブ・ディランの影響が感じられるフォーク・ロック/ブルース色の強いものとなっている。
After Bathing  順調な滑り出しをきったかに見えたJAであったが、メンバーなどの入れ替わりがありグレイスとスペンサーを新たに加えた6人編成となりこのライン・アップは’70年まで続く黄金期の顔ぶれとなった。
 このメンバーで’67年にたった13日間で仕上げられた彼らの代表作でもある「シュールリアリスティック」が発表された。ドラッグ・ブーム華やかかりし頃のサイケデリックなサンフランシスコ・サウンドを印象づけた作品である。
Crown Of Creation  次のアルバムの制作には5ヶ月費やされた。急激に人気をつけグルーピーが増えたことや、コンサートや度重なるTV出演など・・・そんな混乱の中で生まれたアルバムはトリップ感覚あふれる作品で彼らにとって「サージェント・ペッパーズ〜」と呼ぶべきコンセプト・アルバムとなった。
 4thアルバムは広島に落とされた原爆のキノコ雲をジャケットにしたヘヴィーな内容となっており特にスペンサーの書いた「忠臣蔵」は当時ヒッピーが抱いていた東洋指向を表したすばらしい作品となっている。
Volunteers  ライブ・アルバムを1枚はさんで、人気とパワーを兼ね備えたJAが政治色の強いアルバム「ヴォランティアーズ」を’69年に発売する。デッドのジェリー・ガルシアや、後にメンバーとなるジョーイ・コヴィントン、ピアノにはニッキー・ホプキンスなど彼らにとってゆかりのあるミュージシャンが参加している。
Bark  ’69年12月6日。彼らにとってだけではなく音楽的な歴史において衝撃的な事件が起こる。その日オルタモントで行われたローリング・ストーンズのフリー・コンサートでストーンズの演奏中に黒人青年がヘルス・エンジェル(警備員)に刺殺されるという事件が起こる。このコンサートに深く関わっていたJAは大きな衝撃を受けた(JAの演奏中にも観客に暴力を振るい始めたヘルス・エンジェルを止めようとしたマーティが逆に殴り倒されるという事件も起こる、その後マーティはバンドを脱退)。
 ’66年にRCAと結んだ5年間の契約が切れ彼らは何者にも束縛されない自分達のレコード会社を設立し新たにヴァイオリニストにパパ・ジョン・クリーチを迎えセルフ・プロデュースとなる「バーク」を発表。このアルバムはミリオン・セラーとなっている。
Long John Silver  前作がミリオンセラーに輝いたにもかかわらず、この頃JAは分裂状態にありメンバーは個々の活動に比重を傾けるようになっていた。その後、1年以上活動を休止した後’72年夏に最後のアルバムとなる「ロング・ジョン・シルバー」(全米20位)を発表。途中グループを抜けたジョーイ・コヴィントンに代わり、元タートルズのジョン・パーベイタがドラムを叩いている。同年夏に久々のツアーを行ったが、9月のウィンター・ランドでのステージを最後にヨーマとジャックがグループを抜けJAは空中分解。
Early Flight  その後’72年のライヴを収めた「サーティーセカンズ〜」未発表曲を集めた「アーリー・フライト」JA関係の作品が収録されている2枚組みの「フライト・ログ」などが発売された。’87年には’65年〜’72年の主要な曲を4つのパートに分けて編集した「2400フルトン・ストリート」も発売。アカデミー賞を獲得したオリバー・ストーンの映画「プラトーン」の挿入歌に「ホワイト・ラビット」が使われ話題を呼んだのもこの頃である。
Jefferson Airplane  ’89年に’73年に解散以来、実に17年ぶりにオリジナル・メンバーによる再結成。アルバム「ジェファーソン・エアプレイン」を発表し、一時的に復活を遂げた。