天の守護神
まずはこの1枚・・・
”ブロンド・オン・ブロンド”
アル・クーパー、チャーリー・マッコイなどをゲストに迎え作り上げた。彼だけでなく20世紀の音楽を語る上で欠かせないアルバム!












ボブ・ディラン

BOB DYLAN  ボブ・ディラン(本名:ロバート・アレン・ジィンママン)は、1941年5月24日ミネソタ州にて生まれる。8歳の時にピアノを10歳の時にギターを弾き始め、彼にとっての最初のアイドルはカントリー・シンガーのハンク・ウィリアムズであった。
 ’59年にミネソタ州立大学に入った頃、ウディ・ガスリーの自叙伝「BOUND FOR GLORY」を読み感銘を受け名前をイギリスの詩人ディラン・トーマスにあやかり、ボブ・ディランを名乗る。(後に法律上でも改名した)
Freewheelin  ’61年に大学を中退した彼はウディ・ガスリーに逢うためにニューヨークに出てくる。当時病に侵されていたガスリーにディランは何度も訪れアドバイスをもらっている。  ブルース歌手ジョン・リー・フッカーの前座、ハーモニカ・プレイヤーをしてレコーディングへの参加などを経て、ジョン・ハモンド(ビリー・ホリデイ、ブルース・スプリングスティーン等を見出した)に認められ、CBSと契約した。
時代は変る  そして「ボブ・ディラン」と名付けられたファースト・アルバムが’62年2月2日リリースされたが売上は伸びず、アルバム収録曲中オリジナルは2曲であった。その後、当時の恋人スーズ・ロトロの影響からプロテスト・ソングを書き始める。そして’63年5月にスーズと手を組みながら歩いているジャッケトが印象的な「フリーホイーリン」がリリースされる。このアルバムは当時の公民権運動の高まる中で、インテリ層を中心に売れ、ゴールド・ディスクを獲得するまでに至った。ピーター・ポール&マリー(以下PPM)がカヴァーした「風に吹かれて」「くよくよするなよ」は日本でもヒットし、ディランの名は知られるようになった。
Bringing it〜  公民権運動の働きによってトム・ペイン賞を受賞した彼は翌年の’64年にジョン・F・ケネディの演説にヒントを得たアルバム・タイトルにもなっている「時代は変る」をリリース。前作同様プロテスト・ソングを強く打ち出し、ジャケットの方もアーティスティックな仕上がりとなっている。
Highway 61  アルバム・リリース後のツアーで彼は、ビートルズやローリング・ストーンズに出会いロックンロールに刺激を受け、同年わずか1日でレコーディングされた「アナザー・サイド・オブ・ボブ・ディラン」をリリースした。このアルバムでのロックン・ロールの傾向を受け’65年3月に「ブリンギング・イット・オール・バック・ホーム」がリリースされた。フォーク。ロックの先駆けとなり、大胆にエレクトリックの要素を取り入れチャック・ベリーに影響されたという”サブタレニアン・ホーム・シック・ブルース”なども収録されている。このディランのロックへの転身は音楽シーンに大きな影響を与え、バーズ、ママス&パパス、サイモン&ガーファンクルなどが登場しフォーク・ロック・ブームを巻き起こした。
グレーテスト・ヒッツ  しかしながらファンはこのディランのロックへの転身を裏切りだと感じ、ニューポート・フォーク・フェスティバルにおいてエレキ・ギターを抱え出てきたディランに対しブーイングが浴びせられるというようなことも少なからずあった。
 その後「追憶のハイウェイ」をリリース。このアルバムには近年ストーンズにもカヴァーされ、60年代を象徴する曲の1つである”ライク・ア・ローリング・ストーン(全米2位)”も収録されている。
 そして自身初の2枚組みとなる「ブロンド・オン・ブロンド」をリリース。ディラン・フリークの間でも最高傑作と呼び声が高く、フォーク・ロック時代の集大成ともいえる作品である。
グレーテスト・ヒッツ  ’66年7月29日、ウッドストックの自宅近くにてオートバイ事故に遭い重傷を負い、姿を消し、死亡説、再起不能説などいろんな噂がながれたが、’67年に発売された「ジョン・ウェズリー・ハーディング」でカムバックした。続く「ナッシュビル・スカイライン」では特徴であったしわがれた声から一転して、クリアーで甘い声を聴かせ、ファンの度肝を抜いた。
 その後も精力的な活動を続け、’72年にサム・ペキンパーの映画”ビリー・ザ・キッド”に出演。挿入歌の”天国の扉”はいまでもさまざまなジャンルのアーティスト達によってカヴァーされている。この頃彼はウッドストックからロス郊外のマリブに移住している。
Hard Rain  ’73年11月CBSからアサイラムに移籍。初のザ・バンドとの共演アルバム「プラネット・ウェイブス」をリリース。8年ぶりにツアーを行うという話題性も手伝いアルバムはディランにとってだけでなくザ・バーズにとっても初のナンバー1に輝いた。(このツアーの模様はライヴ・アルバム「偉大なる復活」で聞ける。)
Street-Legal  ’78年に初来日を果たすが、大編成のバンドと大胆なアレンジは賛否両論を巻き起こす。武道館での8回公演は当時の最多記録で、その時の模様は「武道館」で聴ける。チープトリックと共に武道館の名を世界中に広めた1作である。またアルバム「スロー・トレイン・カミング」からシングルカットされた「ガッタ・サーヴ・サムバディ」ではグラミー賞最優秀男性ロック歌手に輝いている。
アンプラクド  ’85年にはアフリカ飢餓救済のため「ウィ・アー・ザ・ワールド」に参加。ライブ・エイドなどにも参加している。そして彼自身が提唱したファーム・エイドではトム・ペティと共演。’86年には彼らと共に来日公演まで行っている。’88年にはロック・ロールの殿堂入りを果たした。90年代に入ってからも勢いは衰えず、’92年にはデビュー30周年を記念して多彩なゲストを迎えマディソン・スクエア・ガーデンで大イベントを行っている。’98年にはグラミー賞を受賞したのは記憶にも新しいところ。
 単なるアーティストにとどまらずボブ・ディランをいう存在はアメリカ文化そのものであり、音楽のルーツを語る上で欠かすことの出来ない人物でもある。彼の歌は永遠に受け継がれて行くであろう。転がる石[*転がる石はいつまでも苔が生えない・・](ライク・ア・ローリン・ストーン)のように・・・