グレイトフル・デッド
まずはこの1枚・・・
”グレイトフル・デッド”
ウィンターランドとフィルモアでの演奏を収録した2枚組みのライヴ・アルバム。ライヴ・バンドであると言うことを感じさせてくれる作品である。










dead  ’70年代のサンフランシスコにおいてジェファーソン・エアプレインと人気を二分する存在であったグレイトフル・デッド。ジェリー・ガルシアを中心にロック革命の中心地であったサンフランシスコで生まれ活動は常にマイ・ペースで熱烈な支持者(デッド・ヘッズ)を持っている。バンド名の由来はエジプト辞書の”死”の項からグレイトフル・デッドと名付けられる。
Aoxomoxoa  ’67年にワーナー・ブラザーズと契約「グレイトフル・デッド」を発表する。全米最高73位ながらゴールド・ディスクを獲得。’69年には「アオクソモクソア」を発表するが商業的成功にはほど遠かった。
 次の2枚組み「ライブ・デッド」ではガルシアのギターを中心に彼らの演奏が独特の空間を築き商業的にも成功。ライヴ・バンドとしての真価を見せつけるだけでなく、初期の代表的作品の1つにもなった。
Live Dead  ’70年にはカントリー的な要素を取り入れ、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤングを意識した「ワーキングマンズ・デッド」をリリース。ファンの支持を得、次作の「アメリカン・ビューティー」とともに、ゴールド・ディスクを獲得している。
 ’71年には正式に2作目となるライヴ・アルバム「グレイトフル・デッド」をリリース。全体的にリラックシしたムードでチャック・ベリーの「ジョニー・B・グッド」などの比較的ポピュラーなカヴァー曲なども収録されている。
Europe'72  新メンバーにキースとドナを迎えヨーロッパ・ツアーを開始。その模様を収めた「ヨーロッパ’72」をリリース。3枚組みのアルバムとしては異例の売上をあげるが、その代償としてオリジナル・メンバーのビッグベンを27歳の若さで失うこととなる。’73年3月8日の事であった。
火星ホテル〜  ’73年には自分達のレーベルを立ち上げ「新しき夜明け」「火星ホテルから来たグレイトフル・デッド」をリリース。ニューヨーク郊外のワトキンズ・グレンでオールマン・ブラザーズ・バンド、ザ・バンドと共演して改めて存在を誇示したデッドであったが、’74年の10月ウィンターランドでのコンサートを最後に活動停止を宣言、解散説まで流れた。
 Blues For Allah  ’75年ミッキー・ハートが復帰し、華々しく復活。’70年代中期ロックの代表作に数えられジャズ的要素も取り入れている「ブルース・フォー・アラー」をリリース。また’74年のウィンターランドでの模様を収めた「凍てついた肖像」も’76年にリリースされた。
 ’77年にはアリスタと契約。初めて外部からプロデューサー(キース・オルセン)を迎え制作。続く「シェイクダウン・ストリート」ではプロデューサーにリトルフィートのローウェル・ジョージを迎える。同年の秋にはエジプトのカイロで行われたコンサートで25トンの機材を50万ドルカケテ運び込んで話題となった。しかし’79年にゴドショウ夫妻が脱退。キースはその後自動車事故に遭い32歳で他界した。 
 Terrapin Station  「ゴー・トゥ・ヘブン」は’80年代に入ってからの最初のアルバムになり、当時流行していたAORとクロスして新しいファンを獲得した。’80年はグループ結成15周年ということもありサンフランシスコのウォーフィールド・シアターでは15日間連続で公演し、その時の模様を中心に構成されたライヴ作が「Rockoning」(アコースティック・セット)「Dead Set」(エレクトリック・セット)として発売された。
Shakedown Street  その後個々の活動は活発であったがデッドとしての作品は7年経った’87年にリリース(イン・サ・ダーク)。この作品はかつてないほどの商業的成功を収め、同年行われたボブ・ディランとの全米ツアーも大きな話題を呼んだ。結成25周年となる’89年には「ビルト・トゥ・ラスト」を発売。その後のツアの模様を収めた大作「ウイズアウト・ア・ネット」を発売する。その後新作ではないが過去のライヴを収めたアルバムなどが発売されるが、’95年突然の悲報がもたらされる60年代のアメリカの象徴であったジェリー・ガルシア8月9日他界してしまったのである。その後残りのメンバーはいろんな道を模索したが結局断念・・解散を表明、アメリカの一つの時代が終わってしまった。