チャーリー・パーカー
WITH STRINGS
聴くとパーカーの持つ普遍性がストリングスという本来テンションを緩める存在さえ超えて 彼のアルトを引き立てていることに気が付くはず!

本名:チャールス・クリストファー・パーカーは1920年8月29日、チャールスとアディー・パーカーのただ一人の子供として カンサス州カンザス・シティに生まれる。パーカーは生涯に4回結婚! 子供の時にミズ−リ州カンサス・シティ(当時この地はゴスペル・ミュージックをはじめ、様々な音楽が溢れていた)に移る。 パーカーにとっては音楽的な温床として恵まれた場所に住むことになった。1933年パーカーは学校のスクールバンドで アルト・サックスを手にとることになる。そして、学校を卒業してプロのミュージシャンになる前にすでにセミプロとしての 活動を開始していたようで、楽器を手にとってから間もなくローカル・バンドでのパーティ仕事などをしていた。 1935年から1939年の間、パーカーは地元カンザス・シティでブルースやジャズのグループで働く。ここでの経験が ジャズ・プレイヤーの中でも跳びきりのブルースを吹くパーカーにとって大きな肥しになったことは間違いない。 この時期パーカーは様々なバンドのレコードに耳を傾けたり、地元の上手な演奏家たちと交って自己の研磨に励んでいた。 1938年にはカンザス・シティの最も重要なミュージシャンの一人ジェイ・マクシャンのバンドに加入しシカゴや ニューヨークをツアーで回ることになる。
シカゴの55丁目のクラブでレギュラーでプレイした後、ニューヨークに移り、皿洗いをしながら修行を続けるが父親が亡くなり、 その葬儀の為に一時カンサス・シティに戻る。そののち再びニューヨークに戻ったパーカーは「ハーラン・レオナードのロケッツ」 に参加、約半年を過ごす。その後、パーカーはカンザス・シティに戻り再びジェイ・マクシャンのバンドに参加、 1942年までここに留まることになる。一人っ子だったパーカーにとって母親を一人きりにしてニューヨークに出ることは 難しかっただろう。しかし、バンドの中枢メンバーとなったパーカーはソロの機会を与えられ大きな飛躍への時間を過ごすことになる。 この当時のパーカーのプレイを収録したアルバムが『ジェイ・マクシャン/ブルース・フロム・カンザス』で、 パーカーのほかにバンドの看板プレイヤーだったウォルター・ブラウンをフィーチャーした演奏が聴ける。
「コンフェッシン・ザ・ブルース」は当時の代表的なヒット曲である。こうしたバンドとのツアーの間パーカーは “ミントンズ・プレイ・ハウス”などでジャムセッションに興じ、ニューヨークの最先端の音楽に遅れないよう鍛錬し続けていた。 そして、ついに1945年がやってくる、パーカーは自己のグループを率いてジャズ・シーンの中心に登場してくる。 若冠24歳のパーカーはすでにビバップのアルト・プレイヤーの中でも突出した実力を持っていたことは当時のレコードを聴けば明らか である。スリリングなフレーズとカンザス時代に演奏した様々なブルースのフレーズが大きな財産となってパーカーの プレイを輝かせている。
1946年の、映画『バード』でも有名になったディジー・ギレスピーとのハリウッド・ツアーの時パーカーはロスに残り、 翌1947年1月に退院するまでこの地で療養生活を余儀なくされる。1945年から46年にかけての演奏はサヴォイ、ダイアル両レーベルヘの 大量の録音に収められている。精神的な問題を内包しつつもこの時期、パーカーの天才は燦然と輝いていた。 1947年4月ニューヨークに戻ったパーカーは、新しいグループを結成する。マイルス・デイヴィス(tp)デューク・ジョーダン(p) トミー・ポッター(b)マックス・ローチ(ds)を従えた「チャーリー・パーカー・クインテット」である。 また、パーカーには「ビリーズ・バウンス」を捧げて録音した敏腕のマネージャー、ビリー・ショウが付き、 ビジネス的にも大きな成功を収めつつあった。演素はすでにビバップの時代を抜けつつある雰囲気をたたえ、 パーカーの時代を歩むスピードの速さを感じさせる。1951年までのこの時期こそ、ある意味でのパーカーの最も安定した プレイが聴かれる時期で様々なフォーマット、ウィズ・ストリングスものに至るまでアルト・サックスで出来ること全てを パーカーが成し遂げた時代といってもおかしくない。傘下からは次の時代を担うマイルスが育っていった。
パーカーの演奏はいかなる断片さえも凡百の演奏を遥かに超えたイマジネイションをわれわれに与え続けるが、 この時期パーカーはヨーロッパにも出掛け大歓迎を受けた。アメリカにおける人種的な偏見を持たない観衆からの絶大 な支持を感じ嬉しかったのだろうか、かの地には多くの演奏が残されている。 特に1947年は翌年のミュージシャン・ユニオンのストを見越して多くの録音が残されている。 今となっては天啓としか思えない時期にパーカーの最高のプレイが記録されていた。 この時期JATPのジャム・セッションへの参加もパーカーを再び大きな舞台で飛躍させた。  1951年7月パーカーは麻薬禍によってニューヨーク州のキャバレー・カードを取り上げられ、マンハッタンのクラブへの 出演は不可能となった。この直後のレコーディングが8月8日に行われた『スウェディッシュ・シュナップス』である。 プレイ自体はいささかも衰えは見せておらず、むしろ、後年のバド・パウエルがそうであったように哀愁漂う趣きを感じさせる。 1952年12月『ナウ・ザ・タイム』、1953年には、バド・パウエル(p)チャールス・ミンガス(b)マックス・ローチ(ds) ディジー・ギレスピー(tp)との『ジャズ・アット・マッセイホール』を残し、1954年3月,10月には 『プレイズ・コール・ポーター』を録音する。栄光のクインテットで再びニューヨーク・シーンに姿を見せたパーカーだったが、 後年のレコーディングはほとんどプライヴェート録音が多く、後に発掘音源として正式に発売されたもの中にこの時期の パーカーの姿を伝えるものが多い。  この時期1954年はパーカーは二度にわたる自殺未遂を行っており、正式なレコーディングのセッティングはレコード会社 にとってはリスクが大きかったのかもしれない。いづれにしてもチャーリー・パーカーは1955年3月5日、 自分の名前を冠した名門クラブ「バード・ランド」への出演を最後に1週間後の3月12日この世を去って、 次の世界へと旅立った。 チャーリー“ヤードバード”パーカー、まだ彼は34歳だった。 彼の亡き骸を見つけたのはニカ夫人であった。警官が出したパーカーの推定年齢は55歳だったという。