Andrea Bocelli
サラ・ブライトマンとのデュエットによる「Time to say goodbye」の大ヒットを受けて 全世界向けに製作されました。

1958年、イタリア、トスカーナ地方に誕生。 子供時代、SPレコードのコレクションを通じて、ジーリやフランコ・コレッリなどの イタリアのテノール歌手たちの模倣をしながら過ごしました。 ボチェッリは子供ながらに、有名なオペラの偉大な英雄や悲劇的な役を演じることを夢見ながら、 多くのオペラを勉強していったのです。6歳からピアノを習い始める。
ピサ大学に進学し、法律を学んで学位を取得。 約一年間、裁判所の指名する被告弁護士として働きましたが、歌手への夢は捨てきれず、 思いはいっそう強くなるばかりでした。 ルチアーノ・ベッタリー二に師事していたボチェッリは、ある時フランコ・コレッリの マスター・クラスが開かれることを知ります。 子供時代のアイドルの前で歌うことはボチェッリにとって大変なことでしたが、 結果は弟子として受け入れられたというもので、歌手志望の正しさを立証し、 目的を追求する自信をも強くしました。ボチェッリは法律家としての活動を一時停止し、 その後の人生を音楽に捧げることをこのとき決心したのです。
1943年ショスタコーヴィチの交響曲第8番をソ連国立交響楽団とともにモスクワで初演。 1944年戦況の好転によりオーケストラともにレニングラードに帰還。 1946年スターリン賞とロシア共和国功労芸術活動家賞受賞。第1回アメリカ公演。 駆け出し歌手としての一連のイヴェント参加を通じて、ボチェッリはイタリア音楽産業界の大物、 トノレベディーネと一緒に仕事をすることになり、その後イタリアのレコード会社、 シュガー・ミュージックの創立者であるカゼッリ=シュガーの目にとまり、 彼は早速ボチェッリに録音契約を結ぶことを申し出ます。 クラシック音楽への最初の冒険は、ポピュラーなオペラ・アリアやナポリの歌をうたった “ヴィアッジョ・イタリアーノ”で、1996年にヨーロッパ各国でリリースされました。 このアルバムは、彼に歌への道を進ませたイタリアのテノールたちの伝統と、 祖国イタリアを離れた地で彼らの音楽伝統の灯火を消さずに、普及させた移民たちへの 私的な捧げ物と言われています。 1997年、ボチェッリはインターナショナル・デビュー・アルバムとなる“ロマンツァ”をリリース、 世界中で大ヒットとなり、現在までに2,000万枚を超えるセールスを記録しています。 1998年、“オペラ・アリア集”はボチェッリの国際的なクラシック音楽デビューCDです。 プッチー二、ヴェルディ、ドニゼッティの作品をはじめとするボチェッリが得意とする アリアの数々を収めたこのアルバムを、彼は“子供時代のサウンドトラック"と呼んだとのこと。 “オペラ・アリア集”はテノールによるもっとも成功した録音のひとつとなり、 ヨーロッパ各国のクラシック・アルバム・チャートのトップ・テンに入るという センセーションをまきおこしました。 ボチェッリのライヴでの活動には、数か国で大成功を収めたコンサート・ツアーや、 国際的なガラ・コンサート、最近増えつつあるオペラヘの出演があります。 1999年の夏、ボチェッリは世界的に有名なヴェローナ野外劇場でレハールの “メリー・ウィドウ”に出演し、再び世界中の報道機関、 音楽愛好家たちに大きな関心を抱かせることとなります。