1971年に東パキスタンと西パキスタンが対立し、内戦が勃発。イギリスからの独立時から対立していたインドが東パキスタンを支援して第三次インド・パキスタン戦争に発展。この戦争で東パキスタンはバングラデシュ人民共和国として独立しますが、戦争で多くの人たちが難民となっていきました。
当時インド音楽に陶酔していたジョージ・ハリスンは、インド音楽の恩師からバングラデシュの悲惨さを知らされ、チャリティ・コンサートを開くことを決意。当時としてはまったく前例を見ない大規模な難民救済コンサートの実現に着手します。準備期間はわずか2週間。ビートルズの元メンバーに声をかけましたが、正式に解散して間もないためか、いい返事を得られたのはリンゴだけでした。しかし交友関係から、エリック・クラプトン、レオン・ラッセル、ジム・ケルトナー、クラウス・フォアマンらが賛同し出演が決定、ミュージシャンは総勢25名。その中にはボブ・ディランも含まれていました。
7月27日にラヴィと共にニューヨークで記者会見を開き、翌28日にはシングル「バングラ・デシュ」を緊急リリース。8月1日、ニューヨークはマジソン・スクエア・ガーデンで「バングラデシュ難民救済コンサート」が実現しました。ラヴィの「バングラ・デューン」で幕を開け、ジョージがソロ曲とビートルズの代表曲「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」「サムシング」などを歌い、ボブ・ディランは「風に吹かれて」「ミスター・タンブリン・マン」などを熱唱。最後に「バングラ・デシュ」を出演者全員で歌い、コンサートは幕を閉じました。
ショーは昼と夜の2回行われ、4万人を集め大成功を収めました。この模様は3枚組のアルバムとして71年12月に発売され、翌年3月には映画としても公開されました。しかし初めての大規模チャリティであっただけに、問題も数多く残されました。事前に届出をしていなかったため国税当局から税金を求められ、コンサートの売上げ25万ドルはユニセフに寄附されたものの、ジョージ個人には100万ポンドもの税金が課されてしまいました。さらにマネージメントを握っていたアラン・クラインが売上げを私的に使っていたことも判明。それでも、初めて行われた大規模チャリティ公演としての意義は大いに評価されるべきでしょう。