まずはこの1枚・・・”Linger Awhile”
豪華ミュージシャンが参加、50年代のサラのいまだ若々しさを湛えた円熟前の姿がそこにあります。

サラ・ルイ・ヴォーンは、ギターを弾きフォークソングを歌う大工の父と、教会でピアノを弾いて 歌っていた母の間に1924年ニュージャ−ジー州に生を授かる。 サラは既に12歳の頃にはオルガンを弾き歌い始めていて、アマチュア・コンテストに出演していた。 19歳のときにはアポロ・シアターの“アマチュア・ナイト”に出演して優勝。 エラ・フィッツジェラルドに遅れること9年のことである。歌を聴いていたビリー・エクスタインに 推薦されたサラは、アール・ハインズのオーケストラに入団。
1947年には“タウンホール”に出演、レスター・ヤングらと共演。 この時の歌は現在『One Night Stand:Town Hall Concert』として聴くことができる。 1949年サラはColumbiaと契約、後にマネージャーで夫となるジョージ・トレッドウェルのバンドとの録音は、 『サラ・ボーン・ハイファイ』として聴くことができる。マイルス・デイビスが珍しくも歌伴として参加したこの作品は、 サラの初期歌の典型が聴けます。
1954年、サラにとって運命的となるマーキュリー・レーコードと契約。 カウント・ベイシー・オーケストラとの共演盤『ノー・カウント・サラ』などがジャズ・ファンの大きな支持を得た。 日本で編集されたエマーシー・レーベルへの『コンプリート・レコーディング集』はサラの軌跡を改めて認識させる企画だった。 そのほかコンポーザー物として、恩師ビリー・エクスタインを迎え録音された 『サラ・ヴォーン&ビリー・エクスタイン/アーヴィン・バーリン・ソングブック』がある。
魂の〜 1959年マーキュリー・レコードとの契約から別離したサラは、新天地を求めて1960年ルーレット・レコードと契約、 その後、コンボをバックにスインギーに歌う『アフター・アワーズ』と、ベニー・カーターのオーケストオーケストラで録音された、 静と動の2枚の対照的なアルバム『The Explosive Side Of』『Lonely Hours』がこの時期の印象的な作品だ。 『サッシー・スイングス・ザ・ティヴォリ』はコンボをバックにしたサラの持ち味が出たライブの傑作だ。 その後サラは、Mainstreamレーベルと契約、7枚のアルバムを残す。
中では弾き語りで歌う珍しい姿が記録された『イン・ジャパン1973』、 ミシェル・ルグランと共演した『ウィズ・ミシェル・ルグラン』が印象に残る。 そして、1977年夏のロンドンのジャズクラブ“ロニー・スコット・クラブ“でのライブ盤2枚を残して、 ノーマン・グランツが運営するPabloレーベルに移籍、再びカウント・ベイシーに見えた。 声量は留まることを知らぬほど広がり、いまやヴァーチュオーソとしての風格を見せ始めたサラのこの時期にあって、 ミルトン・ナシメントとの出会いは彼女を新しい局面に引き出した。
1987年にはブラジルの音楽家たちの作品を歌った『ブラジリアン・ロマンス』を録音したが、 来日を控えた1990年4月3日、サラは永遠の旅に旅立ってしまった。 抜群の声量と暖かい歌声、様々な分野の歌を全て自分のものにしてしまう懐の深さを持った不世出の歌手サラ・ヴォーンは、 これからも永久に聴く者に語り掛けるだろう。