ビリー・ホリデイ/奇妙な果実
50年代に吹き込まれた本作は、人生において様々な経験をした ビリーの全てが滲み出、「奇妙な果実」一曲で全てを語り尽くしたような 「世界」が違う存在の名盤。

1915年4月7日、バルチモアに生まれ、1959年7月17日ニューヨークで死去。44年間の人生だった。  ビリー・ホリデイを語るとき必ず引き合いに出されるのがエディット・ピアフだが、 二人の人生はある意味で符合しているし、その歌の魅力がジャンルを超えて人々に多くを語るという意味で共通しているからだろう。 二人とも20世紀が生んだ最も偉大な歌手の一人という意味では間違いないだろう。
ビリーの父のクラレンス・ホリデイは、フレッチャー・ヘンダーソン楽団でギターを弾いていた人間で、 ビリーは私生児だった。ビリーは基本的に一人で育ったようなもので、誰にも愛されずにいた 彼女のこの時代に受けたトラウマが彼女の人生を決めると共に、そうした心の奥底からの淋しさが 誰にも真似ることの出来ない魂の叫びとでもいえる彼女の歌を作り出したのには間違いない。
ハーレム・クラブで歌っていたビリーを見つけたのはジョン・ハモンドであり、 彼の計らいによってベニー・グッドマンとのレコーディングが実現した。しかし、評判はあまり芳しくなく、 約2年間は泣かず飛ばずの時が流れる。しかし、テディ・ウイルソンとのコンビが確立した頃からビリーが持つ本来の天才が輝き出す。 『レディ・デイ』と名付けられたブランズウィック〜CBSに録音されたアルバムに収録された1935年からのコロンビア時代のビリーは、 まだ声も若々しく後年の凄味はないが、すでになんびとも立ち入ることのない隔絶した境地に達している。
太陽の秘宝 この時代から1942年ころまでの時代は、ビリーにとっても最高の歌を残した時代だった。 それに、1937年には、ビリーを“レディ・デイ”と呼んだ“ミスター・オリジナリティ”、レスター・ヤングに出会っている。 そのほかこの時期ビリーは1937年にはカウント・ベイシー、1938年にはアーティー・ショウという スイング・ジャズの二つの典型的なバンドにも参加している。この時期、ビリーこそは最高の歌手であったに間違いなかったが、 人種問題も多かったころでうまく事は運ばなかった。そして、ハモンドによって設立された「コモドア・レーベル」に吹きこんだ 「奇妙な果実」によってビリーは一気にスターダムにのしあがる。
恐らくメジャーからは、この時代この歌の内容では当時発売できなかったに違いない。近年、 未発表テイクも含めこの時期のコモドア・レコーディングが全て発掘されその全貌が明らかになった。 1944年から1949年までのデッカ時代はある意味で安定した録音環境だった。 「ラヴァーマン」「ドント・エクスプレイン」「グッドモーニン・ハートエイク」などのヒット曲を生んだ時代でもあった。
1946年には映画『ニューオリンズ』にも出演、JATPへの参加など安定した時代を過ごしていた。 50年代に入るとノーマン・グランツのプロデュースによって後世に残る様々な作品を発表するが、 やはり彼女の体は次第に病魔に蝕まれていき、声の衰えは見逃せなかった。 しかし、生まれたときからのトラウマを背負いながらレスターとの出会いが彼女をプラスの方向に進ませたのは間違いない。
晩年1958年に久し振りにコロンビアに残した『レディ・イン・サテン』は衰えた声で歌う鬼気迫るビリーの歌が 聴く者に歌の本質を考えさせる名唱だ レスターとの出会いが彼女をプラスの方向に進ませたのは間違いない。 1957年7月6日の「ニューポート・ジャズ・フェスティヴァル」に、ビリーはマル・ウォルドロン・トリオを引き連れ出演した。 ここでの「レディ・シングス・ザ・ブルース」を聴くと、MCの時からビリーの心は今ここにあらずといった風情で、 この時期ビリーはかなりつらい精神状況だったのだろう。また、1958年9月にはバック・クレイトン、 コールマン・ホーキンスを従えたTV番組に出演、この時のビリーは本当に楽しそうに歌っている。
しかし,声の衰えは如何ともし難い。そして、1959年3月4日と11日にレイ・エリス楽団をバックに最後のアルバムを残している。 そして、3月15日、公私にわたってビリーを精神的に支えつづけた稀代の天才テナー、レスター・ヤングが亡くなる。 止めをさされたようにビリーは4ヶ月後の7月17日,ついに旅立っていった、レスターを追うように。ビリー・ホリデイ享年44歳だった。 ビリーの人生はある意味でこの時代のアメリカが背負っていた全ての流れに対して一人の天才歌手が立ち向かった 人類の記録といえるだろう。そして,彼女の歌はその証明である。